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「絵がうまいね。そのかわりにマスクしてね。」 「ポケモンの絵がじょうず。マスクしてや。」 「3年生になってもマスクつけてね!みているからね」


マスクマスクマスクマスク。 2年生で完全に定着している「マスクするのが普通」という認識。低学年だからこそ定着していると言うべきか。

大人にとってはマスクする生活がニューノーマルだけれど、小学校低学年、それ以下の年齢の子どもにとっては「玄関出たらマスクする」がノーマル。子どもにとってはマスクせずに出かけるのがニューノーマルということになるが、付けていなかったものを付け始めるより、付けていたものを外す方が遥かに困難に思える。


子どもが子どもに対してマスクを付けろと言い、 コロナがこわくてマスクが外せない子、 大人に怒られるのがこわくてマスクが外せない子、 素顔の大人を見て走って逃げる子を生み出したのはもちろん、何も考えず屋外でもマスクをつけて歩く大人全員の責任だ。「熱中症よりコロナが怖い」なんてことを言う親がいまだにいるのが信じられない。


こうした「抗えない流れ」自体もきついが、一番心が折れたのはこれまで「子どもの貧困」だとか、「子どもの権利」といった話題に比較的関心のある人が、コロナ騒動渦の行動制限に関して一斉に黙ったことだ。


子どもに黙食なんておかしいと叫ぶはずだと思っていた人が叫ばない。 「若者がウイルスの運び屋」なんて表現は差別だと叫ぶはずだと思っていた人が叫ばない。


もちろん勝手に期待する方が悪いんだけど、これだけ大きな出来事なのにそこだけ見事にスルーしたまま他の発信は続けるからより違和感が目立つ。 制服の自由化を叫んでも批判されにくいが、子どもの黙食反対を叫んで「コロナで亡くなる人を軽視するのか!」と言われるのが嫌なのか。叫びやすい正義だけ叫んだらそれで満足か。


大人が周りに合わせてなーんにも言わない、なーんにも変えないでいたら、子どもが小姑みたいにマスクマスクマスクマスク言うようになりましたけど、それが理想の子どもですか?


子どものマスク警察。 この2年間で生まれた言葉の中で一番かなしい言葉。

2月から古代技術・民族文化がご専門の関根秀樹先生に火起こしの技術を教えていただいている。休日も焚き火で肉を焼くほど熱中していて、「なんでこんな面白いものをパリピだけにやらせてたんだ」という感じ。


何度かやってみて思ったのは、前回前々回書いたような現代人の病とは真逆の世界だということ。


火を起こすのは大変だ。燃やす枝を集めるのにも時間がかかるし、火起こしの道具から作るのはもっと大変だ。発火させる道具を擦るのにも、枝を集めるのにもエネルギーを使う。一定の火力で火を維持するのも難しいし、とにかく「ワンタップでお手軽に楽しい、15秒ですぐ楽しい」とは真逆の世界。


大変なことも多いが、火の不規則な揺れを見つめていると妙に落ち着く。バチバチと燃える音で聴覚が、燻された香りで嗅覚が刺激され陶酔する感じがある。火が祭りや祈祷に使われるのもわかる。危険だけれど神聖で、暖も取れるし調理もできる、それが火なのだ。


火を起こすことは人間の証明でもある。原発事故や核戦争なんかのことを思うと、人間として生まれたことを憂いたくもなるのだが、火を起こすと人間として生まれたことを肯定し、讃えたくなる。キャンプが流行るのも、そんな感覚を思い出したいという本能があるからだろう。


ある詩人は「火を起こすことは人間に許された数少ない恵みの一つ」と言った。

やっぱりあれこれ求め過ぎたのだ。人間がやっていいことはそんなにない。


特にSNSに疲れた人には焚き火をお勧めしたいのだが、焚き火のできる場所が少ないのが残念だ。「危険だから」と何でも禁止し、街中で焚き火が出来なくなったことこそ現代人の病の始まりかもしれない。



更新日:2022年4月2日

時間が極端

TikTokの文化なんてもう全然わからないんだけど、人気の動画は15秒以内が鉄則らしい。YouTubeも面白い部分を切り抜いた切り抜き動画が人気だし、動画配信サイトには倍速再生機能が付いている。倍速にしたら監督が計算したセリフの間もBGMがかかるタイミングも全部台無しじゃないかと思うけれど、根っからの映画好きしかそんなことには興味ないのかもしれない。


LINEは送信した瞬間に相手に届く。新着メール問い合わせに数十秒かかるなんて今の若い子にはわからない。ネットの記事はご丁寧に記事のまとめが表示され、「全文を読む」を押さないと記事全文が読めない、いや、そもそも読まない。日本人の5割は5行以上の文章の意味が取れないというのも去年話題になった。


極端に待つことができない、一つのことに時間をじっくり使うことが極端に出来ない人間になっていないだろうか。数分しか、いや15秒しか集中できないのでは、本も読めなくなる、映画も観れなくなるのは当然だ。この「待てなさ」は体のことに関しても言える話で、何か不調があっても手っ取り早く薬で治したい。風邪を引いてもじっくり休む時間が無駄のように感じる。


掃除はルンバ、食器は食洗機。家事から解放された時間で倍速動画を視聴し、とにかく詰め込むことが自分磨きなんだと消費させられる現代人と、家事で1日の大半が終わっていた昔の人、どちらが幸せだろうか?



味が極端

ペヤング獄激辛を食べたらしばらく悪寒と嘔吐が止まらなかったという人がいた。かなり辛いものでも大丈夫だと言う人がそこまで苦しむことがある食べ物がコンビニに売られている。

ペヤングはショートケーキ味なんてのも発売していたけれど、Youtuberが紹介してその時だけ瞬間的に売れる商品ばかり開発する風潮以上に、極端に辛いとか極端に量が多いものじゃないと満足できない人の増加が気になる。ストロングゼロもそうだし、二郎系ラーメンもそう。ビーフパティ4枚重ね!みたいな見た目の汚いハンバーガーを出す店も多い。

横浜家系ラーメンみたいな食べ物も好きなので、味の濃い食べ物のすべてを否定しないけれど、丁寧に取った出汁の繊細な味も旨いと感じられる人間でいたい。



丁寧さが極端

若手のバンドマンが「アルバム発売させていただきます、ツアー回らせていただきます」というのに違和感がある。バンドマンなんだから太々しくツアー回りますで良いじゃないか。

同様に、とあるYoutuberが概要欄に「この動画が面白いと思っていただけたら高評価をお願いします」と書いていて、やっぱりこれも体のよくわからない場所がムズムズする。面白いと思っていただく?へりくだり過ぎだろう。


女優の上白石萌歌さんがミュージックステーションに出演した際に、萌歌さんが大ファンだというスピッツも出ていて、「スピッツをさん付けで呼ばなかった」ことが昨年ネットニュースになった。「尊敬してるなら『さん』くらい付けようよ」とつぶやいた人が事の発端らしいが、馬鹿馬鹿し過ぎて印象に残っている。スピッツのメンバーはスピッツさんと呼ばれるのが嫌なことを萌歌さんが知っていたのかどうかは知らないが、バンド名とか、屋号には絶対さんを付けた方が良いと思う人はいつから増えたのか?


完全に偏見なんだけど、整体とかのサロン界隈には屋号にさんを付けて呼ぶ風潮が強いような気がする。道案内のページに「セブンイレブンさんの角を右に曲がり、直進すると田中クリニックさんが左手に見えてきます」みたいな感じで書いてあるのを見ると、そこは呼び捨てでいいだろうといちいち思ってしまう。


させていただきますの多用も屋号のさん付けも、違和感があるのは「丁寧過ぎると逆に馬鹿にしているような印象になる」からだろう。もちろん好きなように呼べば良いんだけど、「さんを付けてないのは失礼だろう!」と怒るのはちょっと勝手過ぎるし、変なところにこだわる割にSNS上で見知らぬ人にタメ口でクソリプを飛ばしたりする。他人との距離が極端になっていないか?


「レッドホットチリペッパーズさん」が変なように、芳田整体も呼び捨てで良いですからね。

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